大正末~昭和初期の絵葉書道楽×「謎の抒情画家」小林かいち
小林かいち[明治29(1896)年~昭和43(1968)年]は、大正末期から昭和初期に京都・新京極の人気土産物店「さくら井屋」が版行した木版摺り絵葉書・絵封筒の図案(デザイン)作者として、近年、再評価が高まっている人物です。
1990年代以降、海外コレクターによる日本近代絵葉書コレクションが、展覧会という形で公開され始めたことをきっかけに、公的に<発見>されたかいちですが、当時は経歴などは一切不明で、しばらくの間、「謎のデザイナー」「謎の抒情画家」と呼ばれる時期が続きます。その後、研究の進展や、2008年のご遺族の名乗り出によって、生没年や「嘉一郎」という本名、「うたぢ」という名でも活動していたこと、着物文様の図案描きを生業としていたらしいことなど、その生涯が断片的に明かされてきました。しかし、さくら井屋における仕事の実態についても、またそれ以外の活動についても、不明な点は多く残されており、今なお、かいちの謎は解き尽くされていません。
昭和初期の阪神を舞台に女たちの愛欲を描いた谷崎潤一郎の小説『卍 (まんじ)』(昭和3年~同5年)には、主人公たちが交わした手紙の封筒の柄として、かいちデザインのそれと極めて酷似する意匠が描写されています。関東大震災を機に東京から関西に移住した谷崎が、作中で「毒々しくあくどい」と評す極彩色やベタ塗りの多用は、確かに旧来の上方好みをひくもので、かいちはそこに、アール・デコや未来派といった舶来のスタイル/イメージに着想を得た、極端にスリムな女性の嘆き姿、十字架や教会、カーテン、トランプ、薔薇、蜘蛛の巣などの目新しいモチーフを配していくことで、新時代の上方趣味を提示しました。伝統的木版の職人技で摺り上げられたこれらの絵葉書や絵封筒は、修学旅行の女学生らの格好の京土産として、全国に運ばれていったと推察されます。
「また例の道楽が初まりました、絵葉書が集めたいのです。」
(河井酔茗『新体少女書翰文』大正元年 より)
大正初期の少女向け手紙文例集の中に記されたこの一節は、私製葉書発行が解禁された明治後期以降、大正から昭和初期にかけて湧き起こった絵葉書ブームの中、少女らにも絵葉書収集の趣味が広まっていた事実を知らせてくれます。この時期は、印刷技術の向上を背景に、様々な年齢層・趣味層をターゲットとする絵葉書が大量に流通・消費されていました。若い女性たちの間にも、女子高等教育制度普及を背景とした<文>による濃密なコミュニケーションが芽生え、それが色とりどりの絵葉書・絵封筒そのものへの偏愛という現象とも強く結びつきます。そんな<少女お手紙文化>の視覚イメージを支えたのが、竹久夢二の美人画に代表される<抒情>表現でした。少女たちの気分を体現し、誘導するものとなった<抒情>のデザイン。かいちとさくら井屋の協同による絵葉書・絵封筒は、その系譜上にひそやかに登場し、濃厚な色彩、木版が醸すある種プリミティブな風情、そして、シャープに研ぎ澄まされた退廃イメージによって、あやしげに異彩を放ち続けています。
今回は、かいちの生誕120年を記念し、伊香保 保科美術館所蔵のかいちコレクションの中から、さくら井屋発行の絵葉書・絵封筒を中心に総勢500点以上の作品を一挙にご覧いただく、かつてない機会となります。大正ロマンの時代に出現した、毒々しさと儚さの交錯する、めくるめく小世界をお楽しみください。