風のレフィジア、光と森のかたみ
片山みやびの作品を初めてみたのは上野の森のとびかん。美術館賞寄託の出張で会場にいた。ぽつねんとしているとどこかの館長さんらしき紳士な方が「嘉門です。ほんといい作品選んだね。ひょうごのひと?」と批評された。版画の光について立ち話したら作品はざらざらデコボコ、縁はどつどつわめき、余白は誰かまうことないカルマン渦で湧き立つ感覚であった。
次は原田の森。ひょうきんび。山の高みの自然光がいっきに展示室にふる。雨がだだっと天井をたたき、ひゅうひゅう嵐が誰かを呼びつけて鳴き、昼でもすべてが薄墨に濡れて、つぶつぶグレーの光に包まれて建築の暝さを身にしみとおらせる。そんな嵐のいっとき、アートナウという現代美術展会場の片山作品は数時間前からもうわんわん叫んでいた。かたちも色彩も転蓬のようにどこかに逸れて、すさびの野原のよう。戸外の風やそっけない雨と光と匂いを語る姿がみえる。それはおそらく作品の成り立ちや質のそのもの。徹底して作品は未来完了形で語るがみためは現在形!。未来に消え入ったものは何かな~というふうに伝わる何か、である。詩のようなタイトルもこんな感じだ。
もう自然はかつての慣れ親しんだ姿ではなくなるとき、たとえば村上華岳が感じたものはその作品のみに、ぼうとあらわれる。ほろほろと場所と空間とその一切合財でふるえる、その翳りを奏でる作品である。それでいいのだ。華岳は神戸のあの山の光でみたいし鉄斎も瀧の隅がいい。片山もそうしてきらきらぱと拡げてられるようにしてある。ガラスの光も朝の森もすぐそこにある。絵画も光もくるくるでんぐりかえり未来のかたみのかたちとなる。空と森のレフィジア。光に色にかたちに雲に植物に感応して溶けあい、選り分けられることで、みてふれる、かたちでないかたちのかたみをみえるようにする。おそらくそれはアートの心やすらかな定義そのもの。ふるえるアートの未来の想い出ほけーん。
山﨑 均 (神戸芸術工科大学教授、西脇市岡之山美術館客員キュレーター)