1968年生まれの圓城寺繁誉。彼が現代美術の洗礼を受けたのは、高校時代に兵庫県立近代美術館(当時)で見た「アート・ナウ」だった。個性の塊のような作品を見て「なんじゃこれは!」。それまでは漠然と「将来は建築の仕事に就こう」と思っていたが、絵が面白くて仕方なくなり、大阪教育大学を経て美術家の道へ転じたのである。
圓城寺の高校・大学時代は関西でニューペインティングが隆盛していた時期と重なっており、彼の絵画もおのずから抽象表現主義の系列に属するもとになった。すなわち、ダイナミックなストロークを集積させ、そのプロセスを通じて空間を作り上げるのだ。「描いているのが図なのか地なのか、普通はストロークが図だけど、それを消すことで残った部分が図でありながら地にも見える、その関係性を表したかった」。と本人は述べている。
また、圓城寺が早い時期に油絵具からアクリル絵具にスイッチしたことも時代性が感じられる。平成世代には信じられないだろうが、昔は画家がアクリル絵具を使うと邪道扱いされた。抵抗なくアクリル絵具が用いられるようになったのは1980年代以降ではないか。その点でも彼の作品は時代の流行と密接に結びついている。
さて、このまま編年式に説明を続けるのもまどろっこしいので、圓城寺作品の画期について語ろう。まず2000年代初頭、グリッドの登場である。
グリッドと言っても画面を分割するための地模様ではない。それらは往々にしてストロークと共に現れ、塗りつぶす、上書きする、を何度も繰り返すのだ。「単純な色面プラス何かが欲しいと思った。模様ではなく形状として見えるもの。それでいて画面を邪魔せず、空間を作れるものとして」。本人はそのように述べている。
2000年代前半の作品の中には、グリッドの色面が図に見えるものがあり、日本画の箔の使用を連想させた。ある種の装飾性というか、日本の伝統的美意識が頭をもたげたかのようだ。圓城寺自身、自分の内面に日本美術と西洋美術の価値観が併存し、葛藤と共に融合を試みていたことを隠していない。
グリッドの使用は2007年に終わり、翌年からは再びストロークが画面を覆う作品へと回帰した。回帰といえば、2008年を機にアクリル絵具から油絵具に戻ったことも特筆すべきであろう。
2013年、圓城寺の作風はさらに大きく変化した。それまで横位置が主体だった作品は縦位置へと変化し、画面の線と面が明確に分離したのである。図と地の関係は相変わらず曖昧だが、これまでの作品とは様相が明らかに異なる。その背景にあるのは、美術界における具象絵画の復権である。彼にとっては予想外の事態だが、「観客が絵画を見つめる眼差しは確かに変化している。ならば流行におもねるのではなく、自分のスタイルを保持したまま具象ファンにも訴求できないか」。一昨年の作品は、彼のそんな思いから発していた。
2015年秋、圓城寺は2年ぶりの個展を行う。前回示した方向性が発展するのか、元に戻るのか、あるいは全く異なる展開か、本稿執筆時点では定かではない。しかし、四半世紀にわたり彼の作品に接してきた者として、新作が発するメッセージをしっかり受け止めたいと思う。
小吹隆文・美術ライター