「人生はさすらいである
荒涼とした道なき野原の中で
一人ぼっち
ヴァイオリンを奏で
わびしい音色を聞きながら
私はさまよう」
1978年 斎藤真一
斎藤真一というと「盲目の旅芸人=瞽女 (ごぜ)」描き、明治期の吉原に生きた遊女の哀感をカンヴァスに再現してきた画家のイメージが強いのですが、その主題は多様で、失われてゆく日本の面影を求めつづけた画家の心底には、常に「さすらい」、「旅」、「音色」、「語り」、「哀し」、「悲しみ」、「よろこび」、「ノスタルジー」、といった心が脈打っています。
斎藤真一はよく一人で「さすらい」の旅をしています。出かけるのは名所旧跡ではありません。好んで出かけてゆくのは、果てしなくどこまでも道が続く寂しい原野や荒々しい日本海の海沿いの道なのです。道は初期から晩年まで絶えず取り上げられるモティーフでした。作品に登場する人物はいずれも孤独を抱え込んで当てもなくさまよっている人達ばかりです。画家にとって、「さすらい」の旅の道は様々な物思いを誘う場所であり、一日、あるいは四季折々の気象の変化は過ぎ去ってゆく人生の哀れさを感じさせます。物思いはいつも懐かしい故里の思い出や、今はなき人々の面影に行き着いてしまいます。斎藤真一にとって「さすらい」は自分自身を探し出す旅であり、斎藤芸術の栄養源といってよいのです。
斎藤真一は、岡山県味野町(現倉敷市)生まれ。父親が尺八の太師範という環境で育ったため、芝居、浄瑠璃、浪曲といった日本古来の芸術に興味を魅かれるようになり、近くの劇場に通いつめました。地元、岡山師範で岸田劉生の作風に惹かれてデッサンの勉強に励み、翌年暮れ、上京して川端デッサン研究所に学び、1942年、19歳で念願の東京美術学校(現東京芸大)に入学。
学徒出陣を経験しながら6年後に卒業し、静岡の中学教師として赴任した秋には、日展に《鶏小屋》で初入選しました。
各地で教師生活を送る中、1959年フランスに1年間留学し、本格的な絵画制作に入ります。フランスで藤田嗣治と出会ったのがきっかけで、帰国した翌年(1961年)、津軽を旅して津軽三味線の音色に魅せられ、初めて「瞽女」の姿を知り、大きなテーマとなる「越後瞽女」と出会ったのは1964年、斎藤真一42歳の年です。
十数年にわたり300軒を越す瞽女宿を訪ね、生活をともにしながら描いたこのシリーズでは、《星になった瞽女 みさお瞽女の悲しみ》が1971年、第14回安井賞展で佳作を受賞するなど、人びとに多くの感動を与えました。また、「瞽女=盲目の旅芸人」(1972年・日本放送出版協会)は第21回日本エッセイストクラブ賞を、同年刊行した『越後瞽女日記』(河出書房新社)はADC賞をそれぞれ後年に受賞、文筆でも才能を発揮しています。
1985年、明治期の吉原に生きる遊女の実態を検証した「明治吉原細見記展」を開催、同時に『明治吉原細見記』(河出書房新社)と、斎藤真一の養祖母をヒロインとするストーリーの『絵草子. 吉原炎上』(文藝春秋)を出版、これが原作となり映画やテレビ、舞台で数多く上演されています。
本展はこの「越後瞽女日記」、「明治吉原細見記」のシリーズを柱に、初期から絶作までの作品により、斎藤真一の真髄を紹介するものです。