「昭和の新時代を代表すべき新日本の勝景は宜しくわれ等の新しい好尚によって選定されなくてはなりませぬ」
―東京日日新聞(昭和2年4月9日付)
この言葉は、1927(昭和2)年、日本新八景の選定を開催した東京日日新聞と大阪毎日新聞によって述べられたものです。それまで文人や知識人だけに愛でられていた風景が庶民に開放されようとしていることを、この文言は象徴しています。このイベントでは、明治後期から昭和のはじめにかけての保養や健康増進を目的とした全国的な観光ブームを背景に、9千7百万通という膨大なはがきが集まり、日本中を熱狂させました。国民の投票と選考委員の審査をへて、木曽川は見事河川部門の第1位に選ばれました。この選出によって木曽川と「日本ライン」の風景美は広く認知され、飛躍的な発展をとげていきます。
「日本ライン」という呼称は1913(大正2)年、著名な地理学者であった志賀重昂が、講演のため美濃加茂を訪れたことに始まります。犬山、美濃加茂間の木曽川を舟で行き来したとき、犬山城下の木曽川の風景を「木曽川岸、犬山は全くラインの風景そのままなり」と激賞しました。「ライン」という真新しく新鮮な響きは、この地域の一つのブランドとなって広がりをみせていきます。
大正期、太田町や古井村(いずれも現・美濃加茂市)、土田村(現・可児市)、坂祝村(現・坂祝町)で、ライン下りが始まります。ライン下りとは各乗船場から犬山までを舟で下るもので、木曽川の風景と爽快な流れを楽しむものでした。
また、当時人気を博していた吉田初三郎の描く鳥瞰図のパンフレットやポスターは、名所や行楽地を美しく描き、わかりやすく案内しました。
木曽川が日本新八景に選ばれたことや「日本ライン」という呼称の広がりとライン下りのにぎわいによって、身近な景色への関心が高まり、新たな名所づくりが行われたり、見どころを綴った冊子や刊行物が発行されたりするなど、風景をめぐっての動きが活発になっていきました。
本展は、大正から昭和のはじめにかけて創り上げられていった名所「日本ライン」の変遷をとおして、「風景」「郷土」の魅力にあらためて気づいた人々の意識の芽生えとさまざまな動きを紹介するものです。