中間冊夫(1908~1985)と堀之内一誠(1908~1980)は、ともに1908年生まれの鹿児島出身の洋画家で、独立美術展を主な発表の場として活動しました。両者の表現方法は大きく異なりますが、画家として自身の内面と真摯 (しんし) に向き合い、既成の型にはまらない独自の画境を切り開いた点では共通しています。また、中間は加世田市(現・南さつま市)、堀之内は知覧町(現・南九州市)の出身で、二人とも旧制川辺中学校(現・鹿児島県立川辺高等学校)で学んでいますので、ほとんど同郷と言っても良いでしょう。
中間は川辺中学2年時に一家で上京し、芝の高輪中学校に通う傍ら川端画学校で石膏デッサンや油絵の勉強を始めます。1929年には「1930年協会」の研究所に移り、同会が「独立美術協会」に改まった1931年から出品を続け、後に会の中心作家として活躍するようになります。一貫して人物と空間とのかかわりを重厚な絵肌で追究した作風には、重みのなかにも温かさが感じられ、朴訥 (ぼくとつ) とした中間の人柄が偲 (しの) ばれるようです。
一方、堀之内は川辺中学卒業後に鹿児島の洋画団体「金羊会」で学びますが、絵の道を究めるために22歳で上京、高畠達四郎に師事し、中学校の美術教諭をしながら絵を描き続けました。シュルレアリスムやキュビスムなどの同時代の新しい作風にも挑戦しながら、晩年にはデュフィ風の軽妙洒脱な明るい作風へと到達しています。
同郷、同級の二人が模索したそれぞれの表現の違いや、作品と向き合う姿勢を感じ取っていただければ幸いです。