「生への祈りを描く画家」
やつれの美というものがある。千年を経た、民間信仰の神々をかたどった木像は、すでに顔貌を判別できないところまで朽ちていても美しいことがある。李朝の粉引き茶碗や酒器に生まれた雨漏りは、汚れとしてとらえずそれを愛でる。自然に時を経て、使われ信仰されながら年をとっていくそのままの姿を受け入れ、完全無欠であることを美の条件としない美意識が存在する。
時代を経た油彩画も少しずつ退色して輝きも鈍くなり、描いた時点とは異なる絵に変貌していく。しかし古くなったことで、むしろ美しくなったのではないか、と思わせる絵もたしかに存在する。
イコンも好事家のコレクションの対象になっているが、この古び、やつれの美を愉しむ側面が無視できない。貼られた金箔は新鮮な当初の輝きは失っても、渋い煌めきを放っている。江花先生がイコンの研究をされておられたのも、技法的な面とともにこのような古びややつれの美への興味があったのだと推察している。言い換えればそこには、時を経て変わっても変わらぬ美への強い憧憬があるのではないだろうか。近作の写真を数葉いただいたが、穏やかな人々の暮らしと静謐な夜の祈りの群像が描かれていた。実景を描きながら、今生きている人ばかりではなく、かつてそこに生きていたであろう人が、当たり前のように座って音楽を奏で、天使や、空想、夢が書き加えられていく。描かれているのは、現実のかの地ではない。生死を越え、時間を自由に行き来して描かれた絵なのである。
江花先生の作品は、さまざまな現在と過去と夢の切片を混ぜ合わせて描くことで、時を超えてさらに美しくなる絵を生み出しているのではないか。そしてそこには、イコンと同じ生きることへの祈りがこめられている。
東北文化学園大学 教授 岡 惠介
個展によせて
ローマに到着してほどなくローマで唯一日本人医師の中田医院を見つけました。さっそくコンタクトを取り自分の状況を伝えて、場所の確認に行きましたがインターホン越しに留守中の中田先生に代わって出られたのが奥さんである江花道子さんでした。
しかしその時は江花さんが画家であることは知らず、ましてや直接にお会いしたのはその時から一年も過ぎた後でした。
そしてアトリエに置かれている制作中の一つの大きな絵を見させてもらう機会があり、江花さんのきゃしゃな体のどこからこれを描くエネルギーが出てくるのだろうかと思いました。
江花さんの絵の中で多く描かれている淡いブルーの絵とは少し異なる明るい色彩で描かれているその絵も見ごたえのあるものでした。ローマでの生活を終え帰国を一か月後に控えている私ですが、東京での個展でそれらの絵と再会するのを楽しみにしています。
聖パウロ修道会・サンパウロ前総主事 洗川 修一