1960年以降、岡本太郎の絵画に劇的な様式変遷があり、カリグラフィックな(書道のような)、黒くて大胆な、躍るような線が画面に登場します。
従来、岡本による、この様式変遷に関しては、美術雑誌『芸術新潮』に連載した「藝術風土記」(1957年4月号―11月号)を通して触れた日本各地に残る日本人の根源的な生命力に目覚めた為と説明されてきました。
しかしながら、「日本人の根源的な生命力」の表現が、なぜカリグラフィックな形式でなければならないのか、またサンスクリット文字風のモチーフなど、それとは無関係に思われる表現がなされています。
一方、欧米では、1950年代中頃から墨美会などの日本の前衛書道が注目を集め、フランスで活躍した画家アンリ・ミショー(1899-1984)らを中心に、タシズムと呼ばれる書道のような絵画が誕生しました。
スイス・バーゼル大学の美術史家ヨーゼ・ガントナー博士(1896-1988)は、日本の前衛書道の動向とタシズムの動向とが、同じ芸術意欲によって誕生した最初の地球的様式(Eines Planetaren Stils)であることを高く評価しました。アメリカでも、ニューヨーク近代美術館(MOMA)の研究者ウィリアム・リーバーマン氏(1925-2005)らを中心に、日本の前衛書道とアメリカの抽象表現主義の作品を併せて展示することが試みられました。
岡本太郎が1960年頃から書道のようなカリグラフィックな絵画を描き始めるのも、上述したような欧米での地球的様式の動向を察知してのことと考えられます。ちなみに、岡本太郎の祖父は書家の岡本可亭(1857-1919)であり、若き日の北大路魯山人(1883-1959)の師匠でもありました。
岡本太郎が、地球規模の様式に関心を持つようになったきっかけは、1932年、滞在中であったパリの画廊において、パブロ・ピカソ(1881-1973)の油彩作品《水差しと果物鉢》(1931年)を観て感動し、抽象芸術を志すようになったことにあると考えられます。
後年、岡本は、この時の感動を、著書『青春ピカソ』(1953年)において次の通り述べています。
「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ。」
また、岡本がパリに滞在した1930年から40年までの間に、フランスでは、2種もの世界美術史(普遍美術史ともいう)全集と5種の同単行本が刊行されました。これらは、1970年に岡本が美術雑誌『芸術新潮』に連載した「わが世界美術史」(1970年1月号―12月号)の発想源になったと考えられます。
本展では、カリグラフィックな表現を中心に、岡本太郎作品に観られる地球的様式の生成と展開を概観します。