触る絵画
何れの作品を見てもシュルレアリスムにある自動書記、河原温のようなコンセプチュアルな要素は見当たらない。一枚一枚が、そこにあって通り過ぎていく。つまり高島の作品は「用意されている」絵画ではあるのだが、描かれていても見られることを想定していないのである。
見られることを想定しないとは何か。まずディスクリプションが成立しない。何がどうあるからこうだという作品の記述と解釈を拒否しているのだ。次に高島の作品は概念的要素が強いので、これまでも多くの語り手が観念を用いて対抗してきた。しかし高島の作品は概念を中心に添えて理論を展開していくタイプではない。そして素材だけを提示する所謂「もの派」ではない。もの派は決して「インスタレーション」ではないのだ。それ以前の「エンバイラメント=環境芸術」の影を引き摺っている。引き摺っているからこそ、それが当時新しかったのだ。高島の絵画はもっと、透明感もなく押し寄せては引いていく。時間が誰にでも同じように進んでいくように。
そのため高島の作品は触る絵画なのだ。指先でも、視線でもいい。紙であれ、キャンバスであれ、立体であれ、見るものは自らの触覚を確認するのだ。素材を確認するのではなく自らの触覚を再認識するのだから、時間と気分を感じる。描かないものであっても、まっさらな紙やキャンバスを見詰めたり撫でたりすれば、きっと何かを描きたい、自己で果たせなくとも誰かに果たして貰いたい、そのような感覚に襲われるのではないのだろうか。
その想いを、高島は誰に頼まれたのではなく自らに課すのでもなく、淡々と果たし続けているのではないだろうか。
宮田徹也/日本近代美術思想史研究