大正デモクラシーと言われるように、1912年から1926年にいたる大正時代には、民主主義的、自由主義的なムードが高まり、藩閥勢力に代わって政党勢力が進出、普通選挙制度が成立し、社会運動が活発に行われました。1914年に開戦した第1次世界大戦は国内の好景気とその後の恐慌へと繋がり、1923年の関東大震災は甚大な被害をもたらしましたが、やがて復興する東京ではビルや自動車が珍しくないものになってゆきます。都市が生まれ、歌謡曲や新劇が人気を博し、洋服や洋食が一般的になってゆくこの時代は、竹喬の20代から30代に相当します。
京都市立絵画専門学校の設立によって近代的な美術教育を受ける機会に恵まれ、個性や人道主義を謳う雑誌『白樺』の洗礼を受けた若い竹喬は、新しい芸術を生み出すという気概を持って制作に励みましたが、当時の美術批評などから察するに、そこには社会の要請に答えようとした一面もあったように思われます。初期ののどかな風景描写に始まって、やがて自然から感じる生命力の再現へと目的は推移し、その作品には次第に理性と意志の力を奮い立たせた表現が目立つようになってゆきます。
大正時代、竹喬は制作上の困難についてくりかえし言及していますが、その主な原因は、描きたい内容と描くための材料・技法がうまくかみ合わない点にありました。この時代における竹喬の葛藤を、時代背景やその表現の特性とともに見直してみたいと思います。