誰もみたことがない内海信彦展です。なんかネッシーみたいですが、70年代に描いた作品を出品します。全作品が21歳から28歳くらいの時の作品です。
丹沢松田スタジオの大掃除を若い諸君に手伝ってもらい、70年代の作品を多数発掘しました。中には30年以上そのままになっていた作品もあって、一部ですがかなり剥落した部分もありました。ところがもっとも初期に描いた現代思潮社美学校中村宏油彩画工房時代、1974-75年当時の作品が、もっとも堅牢で微細な剥落がわずかにある程度で、退色もなくほぼ40年前に描かれたままの発色を保っているのです。中村宏先生から教えていただいたのはフランドル技法で、グザヴィエ・ド・ラングレの「油彩画の技術」を徹底的に読みこんで研究した基底材と下塗りの結果が、堅牢な画面と保存に耐える基本だったことが証明されました。もっともたかだか40年ですから、これから十万年後にどうなるかは冗談ですが、百年耐えられるかどうかで淘汰されたり修復に値するかどうかが勝負です。若い時に中村宏先生のような超越的な先生に出会い、しっかりと基本を教えていただいたことに40年経って感謝しております。
翻って多摩美時代の作品の一部は、ポロポロ剥落してきていたりして、自分のダメさ加減に恥じ入るばかりです。21歳当時の小さな寺子屋学校時代の作品が、25歳過ぎの美大時代の作品より堅牢で、長い年月に耐えている…これは象徴的ですね。
1974年、21歳の頃、デモと集会、ジャズと映画そしてデートに明け暮れて法学部を中退し、美学校中村宏油彩画工房で2年間、中村宏先生にシュルレアリスムとフランドル技法を学びました。その後、革命前のイラン、トルコ、エジプト、イタリアに行きました。ペルセポリスに行き、天から矢が降ってきて頭頂を貫き、芸術家になるんだと思ったのが25歳だったか。帰国した日に美大受験を思い立ちましたが入試は終了、しかたなく25歳で予備校に入り、毎日辛い思いでフランドル技法をアレンジし、単発受けた多摩美油画科に入りましたが、再びやめたはずのデモを入学式の日から再開し、授業にはほとんど出ずに、ちょうど金芝河や金大中の死刑阻止、光州事件連帯など集会、ハンストに明け暮れて、在学中に出版社に入り「季刊クライシス」というハードな雑誌編集を任されて、絵を描く時間があまりありませんでした。卒制も「季刊クライシス」の創刊号を担当教授に渡し、キミこれ本だろみたいなことを言われながらも、教授会で名指しされ、あいつは早く卒業させないと何をするかわからないと言われ、強制卒業させられました。卒業後は出版社で週7日一年無休で突っ走り、3年で先端恐怖症になりダウン、自他共に不満退職しました。そして吉田克朗さんと運命的に出会い、3年目にアシスタントにしていただき、作家として何とかやっていく基本を教えていただきました。
今回の作品は多摩美在学中までの20歳代限定です。誰もみたことのない野性時代の内海信彦です。