村上三郎が約半世紀にわたる美術家としての活動のなかで生み出した作品は、その素材、形態において実に多様ですが、そこには、世界との関係の中で織り成される自らの生の在り様を捉えようとする姿勢が貫かれています。村上はインスタレーション型の作品やコンセプチュアルな作品とともに、多くの絵画作品を制作しましたが、作家にとっては絵画もまた、「生きること」に向き合い、その一瞬一瞬を掴みとるための手段だったと考えられます。
1950年代半ば、具体美術協会への参加からほどなくして発表された村上の代表作、木枠に張ったクラフト紙を突き破る<紙破り>は、しばしばパフォーマンスの先駆けとして位置づけられますが、同時にそれは、画面の破壊そのものを作品として提示することで、絵画を形成する様々な既存の枠組みを解体し、その先に立ち現われる絵画の本質を追求しようとする試みでもありました。本展は、<紙破り>に続いて絵画の構造を根本的に問い直した最初期の作品《あらゆる風景》と、この度新たに発見、修復され、約50年ぶりの公開となる作品を含め、1958年から70年代後半にかけて制作された絵画7点を中心に構成されます。
縦横無尽に積層する烈しい筆致が、生々しく刻印された作家の身体性を感じさせる1958~60年代初頭の作品。そのストロークを押さえ込むよ うに木枠を貼り付け、作家がイメージと自身の関係性を探り直そうとしているかのような60年代中期の作品。60年代終盤の作品では、迸るようなストロークは消え、カンヴァスに貼り付けた紙の縁をなぞることで半自動的に描き出された線のイメージが浮遊し、さらに、その後約10年を経て制作された《三位一体》(1978)は、物質としての絵具と作家の身体、観念とか過不足なく一致したかのような強度と静謐さに満ちています。
村上が求めたのは、思考と行為、時間と空間が渾然一体となった具体的な「現象」としての絵画、そして、「生きている」という十全な実感を与えてくれる「経験」としての絵画であり、それは構成的な意識に縛られることのない、無為の創造行為によってのみ実現され得るものでした。本展に出品される一連の作品には、そのような絵画表現を追求するなかで、刻一刻と変化する自己の存在と世界の在り様に率直に反応し、ときに軽やかに、ときに悩みながら、その都度最適な方法を選び取り、表現を展開した作家のしなやかな生の痕跡を見ることができます。
1956年の野外具体美術展で発表された《あらゆる風景》は、木の枝から吊るされた額縁を通して偶然に切り取られる風景を観賞するというものでした。一見、絵画作品の対極にあるような表現ですが、刻々と移り変わる状況の一コマ一コマを際立たせ、鑑賞者とその周囲の世界の関係を流動的で濃密な交渉の場へと転換する仕掛けには、絵画を通して村上が追求した、生きることと表現についての思想や態度が、より直接的な身振りで示されているように思われます。
私たちそれぞれの生が、自らの存在を基盤に外界との様々な接触を通じて紡ぎ出されていくものであるとすれば、村上にとって表現することは、まさに「生きること」そのものであったといえるでしょう。そうした表現行為から生み出された絵画作品と《あらゆる風景》。対照的な形態でありながらネガとポジのように関連し合う表現を通して、一定の形式に拘泥することなく、絵画=生の本質に果敢に迫ろうとした作家の軌跡をご紹介します。