中島徳博『木下佳通代―私論』 『木下佳通代 1939-1994』より
さまざまな紆余曲折があるにせよ、木下佳通代の仕事は大きく見て二つの時期とタイプに分けることができよう。ひとつは1973年頃から1980年にかけての写真をベースとした仕事であり、もうひとつは1982年頃から始まるペインティングの仕事である。その中間に、パステルの作品が位置している。見方によれば、見事なまでに整然と首尾一貫したプロセスを踏まえた生涯と作品であったと言うことができよう。それはあたかも、現代美術の諸問題を自覚的にとらえなおし、その課題への解答として個々の作品制作に打ち込んでいった観がある。しかしながらこうした外見上の一貫性も、今日私たちが過去を振り返ってみてはじめて感じとれるものであり、作者本人にとってはけっして計画しておこなったことではなかった。むしろそれは内なる迷いや外からの影響、体当たりの試行錯誤の積み重ねの中で、徐々に形成されていった軌跡とでも言うべきものだろう。しかしながら、それにしてもなんという破綻の無さ、ぴんと張り詰めた緊張の持続であることか。作品の内容や、目指した方向に関してはさまざまな意見があるにせよ、こうした安易なマンネリズムと意識の弛緩を一貫して拒否する厳しい制作の姿勢は、誰もが認めるところである。それゆえ、彼女の作品をどのように受けとめ、それを現代美術の中にどう位置づけていくべきかが、残された私たちに投げかけられた課題である。私にとっては個人的な交友の記憶も生々しく、いまだ冷静な距離を保つことも難しい状態だが、ここではその成果を振り返りながら私なりの解釈を試みてみよう。
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善かれ悪しかれ木下佳通代の作品は、1960年代から1980年代にかけての現代美術の大きな潮流に掉さした仕事であった。というより、時代の先端的な動向と問題をこれほど鋭く感知した作家も珍しいのではなかろうか。それなりの必然性を持ちながら、1970年代の観念的な写真の仕事から、1980年代のペインティングへの作品の移行は、まさに時代の伴走者といえる鋭い感受性の在り処を示している。それはモダニズム絵画の枠の中で、なおかつ視覚的豊かさを獲得しようとする矛盾に満ちた営みであった。孤立無援のこの苦行を支えていたものは、芸術に対する高い理想と信頼感であったように思われる。誰よりも作者自身が確実に理解していたように、木下佳通代の作品が日本の現代美術の中でも稀な純度の高い絵画的“質”を達成しえたことは、流派や運動にとらわれて他律的な評価に傾きがちな私たちにとっても大きな戒めとなることだろう。そしてまた、こうした人物が私たちの身近に生きていたことこそ、私たちにとって生きることへの最大の勇気づけと励ましに他ならないのである。