山本修司は何ではないか
まずもって、本人も認めるところによると、画家ではない。
しかるに今回の個展では、最近「絵の描き方」に関して大きな決断を下して制作した作品が展示されるという。即ち、これまで自らに禁じてきた写真を使った制作、写真を出力した上に絵具をのせて描くことを解禁したとのこと。画家でないならさっさと写真でも何でも使って制作すればよさそうなものだが、本人にとっては大変な決断だったらしい。
描き方の変化に伴って、絵画で言うところのモチーフも木漏れ日のような光から、風景を映し込む水面へと変化している。光の透過から反射へというこの変化は、これまでの山本の作風の変化に比べればそれほど大きなものではないのかもしれない。一方でこの変化を描き方の変化と絡めて考えてみたら、山本修司の「何か」が見えてきた。
それは、(少なくとも私の知る限りでは)山本の作品が内実のある「存在」としてそこにあったことはなく(従って勝義の彫刻家でもない)、常に―実際の石を使った作品でさえ―何かを「写した」ある種のイリュージョンである、ということ。それが絵画的イリュージョンと異なるが故に、いっそう絵画(画家)ではない、ということが意識されるのであろう。また、写真の上に描くことに抵抗があったのは、機械的な写像 (イリュージョン) と彼独特の写像の間に折り合いがつきにくかったためかもしれないし、写真という「完全な写像」の上に絵具をのせると、絵具が「存在」に近づく危険を感じたからかもしれない。
しかしこれは、筆者の勝手な深読みに過ぎないかもしれない。山本が実際に語っているのは、作風・手法の変化は不可逆的なものではなく、必要に応じていつでも立ち返ることかできる、ということ。そして、言葉にできない「何か」(表現の核)を螺旋状に取り囲むように作風を変化させて来たとのこと。おそらくその最初の一周が完成していないからこそ、以前の手法に返らずに新たな作風へと進むのであり、一周目が終ったときに「表現したい何か」、すなわち本来の出発点にようやく到達するのであろう。とすると、彼は「未だ何ものでもない」ことになってしまうが、だからこそ瑞々しい作品を作り続けられるのだとすれば、「未だ何ものでもない」もなかなかの褒め言葉である。
(三井知行 大阪新美術館建設準備室学芸員)