佐野一彦(1903~1997)は東京に生まれ、学生時代に哲学や文化史を学び、ドイツ留学後、神戸の大学で教鞭をとっていました。1945(昭和20)年4月、戦争が激しくなると、えんね夫人ら家族とともに加茂郡伊深村(現・美濃加茂市伊深町)に疎開、やがて定住します。そこで佐野は、今まで過ごしてきた都市とは違う農村の暮らしに出会い、高い興味・関心を示します。民俗学も研究していた佐野は、疎開直後から伊深の暮らしを日記に書きはじめます。それが、「伊深日記」です。日々の食事の内容は絵入りで説明を加え、道ばたで見つけた草木は観察したとおり克明に記しています。そして、さまざまな出来事を通した人とのつながりのひとつひとつを綴っています。このように、「伊深日記」は単に一個人の日記というだけではなく、村の農作業や行事、我が子が学校で覚えてきた方言や遊び唄など、伊深の様子が客観的にとらえられています。人々の営みをフィールドワークをとおして記録した、現代史の観点から見ても貴重なものといえます。
戦争という極限の状況の中、伊深に疎開した佐野は、あふれる自然と風土に一種の「豊かさ」を感じたのかもしれません。戦後、神戸へ戻ることなく生涯にわたり伊深に住み続けたことが、そのことを物語っています。
けふ野辺をあるきて―見たもの、聞いたもの、感じたもの、「伊深日記」にはそのほぼすべてが記されています。本展をとおし、つつましくも満たされた気持ちで過ごした伊深の空気を感じていただければ幸いです。