セカールの門
1990年代から80年代にかけて、セカールは数多くのブロンズの「門」を造っている。それらは他の作品とは明らかに違う異様な息づかいで、我々に迫ってくる。
第二次大戦中、20歳代の彼は、転々とナチの強制収容所に投ぜられている。後年、そのモニュメントの雛型を造っているが、ナチの番兵さながらに肩をいからせ、傲然と両足をふんばり、黒々と不気味に突っ立っている。それはまさに地獄の門であって、生と死との境界であり、一度入った者は断じて出ることを許されないのだ。
戦後1968年、束の間の「プラハの春」がソ連軍の制圧によって終りを告げ、彼はドイツを経てウィーンに亡命する。やがて、ひそかにプラハのアトリエに残した作品を取り戻しに行くが、国境の女監視人によって、命の保障ができないという理由で、入国をきびしく拒否される。
そして、彼が深く心酔したカフカの小説「掟の門」には大男の門番がいて、主人公の男は「いまはだめだ」と、扉はあいているのに、中に入ることを拒絶される。男は理由もわからず、何年も待ち続けついに命が尽きてしまう。門番は扉を閉じて去る。門は必ずしもひとつの領域から他の領域への通路であるばかりではなく、同時に侵入と、通過を誘いつつ、それを拒み、退け、人をそこに釘付けにする。このカフカ的物語世界と「門」にまつわる苦痛にみちた記憶が、次々とセカールに「門」を制作させたのかも知れない。
1989年セカールが日本に滞在したとき、明治神宮の大鳥居にはじまって、伊勢神宮や出雲大社の白木の大鳥居、日本海の岩上の小鳥居、そして海中の厳島神社の赤鳥居を見て、その素朴な形の美しさに異常な感動をおぼえたことを、ウィーンの夫人に書き送っている。
古い日本人にとっては、鳥居は日常世界と聖域との境界を意味するのだろうが、セカールにとっては、扉もなく門番もおらず、往来、出入自由な門=鳥居はいったいどう理解したのであろうか?私は生前の彼にそのことを尋ねる機会を失ったことを、まことに残念に思っている。
村山治江