見たこともないような風景の内側をめくりあげてしまう希望
江上茂雄さんは明治45年(1912)生まれ、今年で101歳になられた。今でこそひとりで外出するのも叶わなくなり、毎日を家の中で過ごされているが(とはいえなんとひとり暮らしである)、つい4年前までは「路傍の画家」として現在も住む熊本県荒尾市周辺の風景を写生しつづけてこられた。それも67歳から97歳までの30年間、ほとんど毎日のように。
自宅を歩いて出かけてはここぞという風景の前に座り、大体2、3時間かけて水彩画を1枚仕上げて帰ってくるという日々の繰り返し。「ご飯を食べるのも絵を描くのも同じこと」とか「歩いて出かけて風景に出会うのがただ愉しかった」と言われればそういうものかと得心もするが、しかし「毎日描こうと決めたから」というそれだけの理由で30年間、元旦と台風の日をのぞいては晴れの日も雨の日も描きつづけたという持久力はただの淡々を超えてどこか狂気すら孕んでいるし、描かれた1万枚もの水彩画の物量を実際に目の前にすればその印象も尚更なものとなるだろう。現在も体調の良い時は長年のライフワークのひとつである木版画の制作に取り組んでいるというから、表現者としての業のなんと深いことか。
この展覧会は、ただひたすらに(そして果敢に)独り描きつづけた江上茂雄という絵描きの道行きを紹介する、美術館によるはじめての企画展である。
絵を描くのが大好きだった江上少年は、福岡県山門郡瀬高町(現 みやま市)生まれ大牟田育ち、高等小学校を卒業と同時の15歳で三井三池鉱業所建築課に入社することになる(しばしば誤解を招くが炭鉱夫としてではない)。江上さんはいわゆる「日曜画家」であり、以後の45年間60歳まで会社員として勤めあげ、多い時には7人家族を養いながら日曜日毎に絵を描きつづけた。最愛の母に捧げられた初個展が開かれたのも、退職した60歳の年であった。
当初は水彩絵具を使っていたが、30歳頃からクレパスを使うようになった。最大の理由は、クレパスが安価で手に入れやすい画材でありながら油絵具に似た質感を得ることができるから(しばらくすると耐久性の理由からクレヨンを使うようにもなる)。江上さんと話していて名前のよく挙がる画家は、例えば岸田劉生や坂本繁二郎、マチス、ボナール、パウル・クレーなど。そういった画家たちからの影響を多かれ少なかれ受けつつ、江上さんが油絵具による絵画表現に憧れを持っていたのは自然なことだし、主に経済的な理由で油彩画を断念しなければならなかったことは今も江上さんのなかに生々しいルサンチマンとして根を張っている。ただし、だからこそ私たちの眼と心を魅了する江上さんの絵がここにある。
描かれたのはもっぱら大牟田近郊の風景や身近な眺め。狭い社宅の板間にしゃがみ込み、現場でのスケッチをもとにクレパスを塗っては削りまた塗ってとほとんど執拗に塗り重ねていくことで、もはや油絵具ではつくりえない独特の質感をまとうクレパス画が生まれることになる。広々とした風景のただ中にひとり身を置き光や風に触れる悦びが、クレパスを延々と塗り重ねる手と時間のなかに託されて、懐深く親密な風景を紙の上につくりゆくのである。そこには空に降る雪も波立つ海も、空にそよぐ風もとらえられている。
生来から小さきものを愛で、弱きものに共感を寄せる心性の持ち主なのだろうと思う。そのことは江上さんの絵のあらゆるところに染みわたっているし、たとえば大きな風景の中にぽつんとたたずみほのかな光を放つ一軒の小屋にも、たとえば道端に生える草花を摘み、持参した小瓶に挿して大切に持ち帰っては鉛筆で緻密に象った植物画にも認められる。戦時中の昭和13年(1938)からおよそ30年間の長きにわたって断続的に制作され、『私の鎮魂花譜』と名付けられたそれらは、江上さんにとって青年時代の寂しさを慰めてくれた代償的行為の記録でもある。
昭和30年代、つまり1960年前後の大牟田は、三池争議(1960)や炭塵爆発事故(1963)などの歴史的事件が象徴するように、未曽有の社会的混乱を経験することになる。江上さんも職を失うかもしれないという危機感を覚え、事と次第によれば作品制作で生計を立てねばならなくなるかもしれないと、木版画制作に取り組み始めた。その一方で、日曜画家として1カ月に1枚というペースでのクレパス・クレヨン画の制作ばかりに安住してはいられないとの焦燥感から、平日の帰宅後や自由時間には『私の手と心の抄』と題された実験的な即興絵画のシリ一ズを手掛けるようにもなった。
『私の手と心の抄』が制作されたのは昭和34年(1959)前後から退職する昭和47年(1972)までの間。クレパス、クレヨン、水彩絵具のみならず、鉛筆、ボールペン、墨汁、マジックインキなどありとあらゆる身近な画材を駆使して雑多に生み出された作品群は、だからこそ画材と自由に戯れる江上さんの肉体的な高揚をダイレクトに伝えてくる。江上さん自身も「このシリーズが描いていて一番愉しかった」と語っている。
その「愉しさ」は、江上さんが絵描きとしての本流を賭けていたクレパス・クレヨン画の制作にもゆっくりと影響を与えていったように思える。昭和40年代半ばから作品のサイズは徐々に小さくなり(必然的に制作のペースは上がり)、描かれるのも遠くはるかな風景から近く小さな、手を伸ばせば物理的にも触れることのできるような風景へと変わっていく。風景と触れあい、一体化することの悦びを絵に表すためのこれまでとは別でよりリアルな方法を、江上さんは自らの手で練り上げようとしていた。筆を運びながら目の前の風景と一体化していくその心の震えを、まるでイメージの揺らぎとして定着するかのように。
そしていよいよ画家 江上茂雄の第2ステージが始まる。つまり現場写生による水彩風景画の時代である。昭和47年(1972)60歳で無事退職を迎えた江上さんは翌年荒尾に転居、木版画の制作に精力を注いだ数年を経て、昭和54年(1979)から水彩絵具の道具一式をリュックサックに詰めてほとんど毎日街や野山に出かけるようになった。クレパス・クレヨンによる室内での制作から水彩絵具による現場写生への転換、あるいは現場写生による風景画制作のための水彩絵具という画材の選択。この転換/選択は一見唐突にも見えるが、しかし昭和30年代からの絵の変遷を見ていけば、それが長くゆっくりとした助走をともなっていたこともうかがえる。
ただ、それにしても分からないことが多すぎる。幾度となく同じ風景を描くにしてもいつも同じ構図なのはなぜなのか、写実・写生を旨としながらなぜ影はいつも蒼く、光は徐々に黄色くなるのか(絵具の奔放な厚塗りに関しては「水彩画としては邪道だが、薄塗りではどうしても満足できなくなった」と江上さん自身が意識的ではある)、1日1枚できあがる絵の「すべてが一応及第点で、失敗作はない」というのはどういうことか、そもそもなぜ毎日描こうと決めたのか、など。同時に分かってもいる。これらの「なぜ」に答えられたとしても、なぜ私たちが江上さんの風景画に惹きつけられるのかには答えられないままであることを。
人はたくさんの矛盾と曖昧さを抱きかかえながら、相容れないものに引き裂かれる経験を繰り返して生きて在る。形式的には精彩を欠き凡庸と括られてしまうかもしれない江上さんの絵がしかし凡庸さの底を掘り抜き光を放つのは、江上さん自身がその生と徹底的に向き合っているからであり、個としていかに生き抜くかという原初的な生の力がにじみ出ているからだろうと思う。土に着き、自己を見つめ、世界に触れつづけた江上茂雄という人間の101年の道行きを、見渡そうとするのではなく想像してみること。
どこにでもある風景をどこにでもある画材で描いた風景画が、見たこともないような風景の内側をめくりあげてしまう希望を、展覧会場で受けとめてもらえればうれしく思います。
担当学芸員 | 竹口浩司
*本展は九州のローカルな美術を楽しく深く紹介するシリーズ展「郷土の美術をみる・しる・まなぶ」の5回目にして特別編になります。大人と子どもがときには一緒に、ときには別々に美術と向き合う場と時間をつくり出します。会場ではおもてなしスタッフ「ハンズさん」が来場者を気さくにお出迎え。作品鑑賞のお手伝いをしたり、話し相手になったり、ちょっとしたクイズを出してみたり。ただし展覧会場での過ごし方は皆さん次第。ひとり静かに見るもよし、誰かと話しながら見るもよし、どうぞご自由にお楽しみください。