平野甲賀は1957年、武蔵野美術大学の前身、武蔵野美術学校に入学し、在学中の1960年に日宣美展特選を受賞。高島屋宣伝部に入社し、後にフリーランスデザイナーとなります。1964年から1992年の三十年弱にわたり晶文社の装丁を一手に担い、晶文社スタイルを作り上げました。1984年には木下順二『本郷』(講談社)の装丁で講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞。1960年代半ばからは晶文社の編集者であった津野海太郎とともに演劇活動に参加し、六月劇場、黒テントを中心にアングラ時代のポスターやチラシを制作し、舞台装置も手がけました。1973年に植草甚一責任編集大判サブカルチャー誌「ワンダーランド」のちの「宝島」のアートディレクターとなり、大いに反響をよびました。1984年には高橋悠治らが始めたバンド<水牛楽団>やアジア民衆文化通信「水牛」の活動に加わり、今日にいたるまで平野甲賀の根底を流れ続ける新たな表現方法を獲得します。2005年に神楽坂上の岩戸町に<シアター・イワト>をオープン。ガレージを改装した120席ほどの小劇場のプロデュースを手がけました。本展では300冊以上のブックデザイン、主にシルクスクリーンで60年代後半から70年代にかけて作られた演劇ポスター、貴重なリトグラフ作品や、「水牛」、イワトを中心としたチラシ等を一堂に会することで、平野甲賀が歩んできた半世紀にわたる仕事の全貌を探ります。