吉村益信(ますのぶ)(1932(昭和7)-2011(平成23)年)は、1932(昭和7)年、大分市の薬品会社経営者の家に生まれ、1951年、大分第一高等学校(現、大分上野丘高等学校)を卒業し、武蔵野美術学校に入学。同年の夏休みに、磯崎新(いそざきあらた)が所属し、少年時代の赤瀬川原平(あかせがわげんぺい)らが出入りした絵画グループ「新世紀群」を大分市で結成し、その後徐々に、東京での活動を本格化し、1960年に、篠原有司男(しのはらうしお)らとネオ・ダダイズム・オルガナオザー(2回展より、ネオ・ダダ)を結成。実質半年程の活動期間ながら、ジャンクオブジェ、街頭でのパフォーマンス等による激しい反芸術的活動で注目を集め、吉村は、自宅アトリエを、その会場として解放するなどし、同グループにおけるリーダー的な役割を果たしました。
その2年後に渡米。ニューヨークで個展、グループ展を開催し、1966年に帰国し、帰国後は、ネオン・アート、ライト・アートの分野の第一人者として、1970年の大阪万国博に参加しました。
その後、1970年代前半には、一転して反文明的な姿勢を示し、インドの伝承(でんしょう)やエコロジーに傾倒(けいとう)。また70年代後半には、アーティスト・ユニオンの事務局長となり、アーティストの社会的自立を目指しつつ、透視図法(とうしずほう)を用い、テキストを描きこむ作風を展開。80年代以降は、丹沢山系(たんざわさんけい)近郊(きんこう)へ移住し、月を題材に、時間や遠近法をモチーフとする作品を制作しました。
本展では、戦後の美術界の転換期にあって、ネオ・ダダでの活躍と、テクノロジーを用いたオブジェなどで時代の寵児(ちょうじ)となった活動の前期から、エコロジー、遠近法を主なテーマに、具象から抽象の平面へと移行した後半期にいたる、実験精神に溢れる吉村益信の創造の足跡(そくせき)を、所蔵品を中心とした作品・記録写真約70点によりご紹介します。