平成24年は大正元(1912)年から100年を隔てた年となる。大正期は、多様な世情をはらみながらも文芸のみならず社会全般が大きな華やぎを示した時代であった。その中で日本画は、大正3(1914)年に院展が再興し、大正7(1918)年には国画創作協会が設立され、文展(大正8年より帝展)とともに三者が鼎立するいわば黄金期を迎えることとなる。
国画創作協会(略称「国展」)は、大正7(1918)年1月に京都市立絵画専門学校の第一期生であった小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊、野長瀬晩花、村上華岳を会員として、「生マルゝモノハ藝術ナリ。機構ニ由ツテ成ルニアラズ」に始まる国画創作協会宣言書を発表して設立した日本画の在野団体である。彼らは同年の第1回展後に会員となった入江波光とともに、昭和3(1928)年までの10年間に7回の展覧会を開催した。宣言書に謳う「已ム能ハザル個性ノ創造ハ作品ノ生命ナリ」に準じた運営方針を守り、第3回展までは際立った厳選を貫いた。そして大正10(1921)年から会員の渡欧による3年間の中断を経て、第二部に洋画、工芸、彫刻を加えた総合的な公募展に推移したのち、経営破綻を主な原因として昭和3(1928)年に日本画部門は解散する。
この国展は短命ではあったが、京都だけでなく全国的な日本画の公募展として、生命力に富んだ個性豊かな作品を歴史に数多く残した。国展は個性が湧出するのを押し止めることなく、奔放な展開をむしろ奨励した感があった。百花繚乱と称される個性の花々が競演したのが国展であったといえる。
竹喬美術館は、開館以来、国展を全体としてまた個別の作家毎に紹介するとともに、国展後継の新樹社や柏舟社についても企画展を行ってきた。この成果として、創立会員はもとより、吹田草牧、伊藤草白、石橋謙吾、澤田石民、林司馬ら国展画家の作品をかなり収蔵することとなり、国展を検証する上での一つの拠点になった。
このたび開館30周年を記念して、竹喬美術館の重要な柱である国展の作品約50点を改めてご披露し、国展の活動が近現代日本画に与えた影響を考え直したい。自らの魂に呼びかけるような純粋な創造による作品の一つ一つに見入っていただければ幸いである。