児玉画廊|東京では、8月25日(土)より9月29日(土)まで飯川雄大個展「fade out, fade up」を下記の通り開催する運びとなりました。飯川は、映像作品を主体とした制作、発表をしてきました。24時間分の映像を時計代わりとして、時計の概念を尺度から感覚的なものへと変換してしまう「時の演習用時計」や、人の「思い込み」を逆手に取って時間感覚や重量感覚を偽る様子を捉えた映像作品「時間泥棒」・「Very Heavy」シリーズなど、飯川の作品は多くの人が当たり前すぎて看過している事象に、ほんの少し歯車を狂わせるような仕掛けをしてみせることで固定観念から乖離した感覚を観る者に与えます。今回の展覧会では「fade out, fade up」と題した新作の写真のシリーズを中心に、その「何かが少しだけ違ってしまったような世界感」を提示します。
「fade out, fade up」はその名の通り、暗闇から光源までの深い陰影のグラデーションを写し取った作品です。昼間に見る何気ない場所のありふれた風景も、夜にはひっそりと暗闇に沈み、別の表情を見せます。ぽつりと灯った街灯が暗い地面に仄かな光を投げている様子、薄暗い木立がざわざわと揺れているところに差し込むライトの光など、光の届く僅かな場所にだけ特別なものが立ち表れているかのような、叙情的で、しかしどこか通常とは異なるようなミステリアスな情景を切り取っています。時に故意に状況を演出してさえ見せようとしているこの違和感のある情景を生んでいる要因は、ハイライトと暗闇との中間帯にあるどちらでもない曖昧なエリアであり、この作品における飯川のフォーカスはその部分に向けられています。見えないもの、知覚できないものに対しては必然的に想像力が働くものですが、昼間に見ればお馴染みの景色の一部が、夜、照明によって暗闇から僅かに覗いている、というシチュエーションは一層想像力を掻き立て、心を震わせるものを感じます。
「なんとなく見えなくなって、なんとなく見えてくる。」この新しいシリーズを自ら評した飯川のこの言葉は、これまで制作してきた作品にも一つの共通項を与えているように思えます。例えば「時の演習用時計」では数字や単位で時間の特定の点・期間を示す「尺度」としての「時計」ではなく、24時間を一つの単位として毎日同じ時間に同じ場面を繰り返し流しつづける映像を「時計」であるとする事によって、漫然と時の推移を知らせるというものでした。それは新作「fade out, fade up」で見せる光と闇の間に広がる曖昧な境界と同じように、ある一点を特定しようとするのではなく、連続する変化そのものを捉えようとする姿勢であるように思います。これは、「時間」や「感覚」といったこれまでの作品のテーマとして扱ってきた観念が可知的ではあれど、曖昧で規定はできない、という見解を呑み込んだ上で、ならば、移ろうものや掴み所のないものはそのありようのままに捉えて示すべきである、という作家の思考の推移が読み取れてきます。
飯川はこれまで映像作品において鑑賞者に対し作品を見る為に時間を拘束することを望まない、という趣旨の発言を繰り返ししてきました。いつ、どの場面を見ても良く、知らない場面があっても構わない、というこの姿勢は本来映像作品にはそぐわない事でしょう。しかし、このことは飯川を映像作家としてユニークであらしめる大きな要因となっています。このような相対的な思考は、2007年から継続している写真をweb上や簡易プリントで無制限にアーカイブしていくプロジェクト「デコレータークラブ」においても見られます。一つ一つの写真は日常の些細な事から偶然出くわして驚いた現象など、極めて個人的でその場限りの一場面ですが、それを山積していくことで、デコレータークラブ(Decorator Crab)が自身の殻に藻や海藻を際限なく飾り立てて埋没していくように、それぞれの写真に収められた密やかな事件の発見の感動や一瞬一瞬の衝動はやがてアーカイブの膨大な総体のなかに埋もれていきます。しかし、それはそもそも他人にとっては気にも留めぬような「必要とされていない」ものの集積であり、アーカイブが大きく複雑に形成されていくにつれ、個々は全体の中に没入していくであろう、という想定の元になされているプロジェクトなのです。
今展は「fade out, fade up」、「デコレータークラブ」によって構成され、飯川の作品系統について理解を新たにご覧頂ける内容となっております。