―1910年代、小さな画面に生命を刻んだ、ひとりの青年―
親友の恩地孝四郎・藤森静雄と共に刊行した、近代版画の草創期を彩る作品集『月映(つくはえ)』をはじめ、萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』の挿画として人々の記憶にのこるペン画『心原幽趣』シリーズなど、田中恭吉の全貌を紹介する12年ぶりの大回顧展。
1892年に和歌山市で生まれた田中恭吉は、1910年、18才の春に画家を志して上京し、白馬会原町洋画研究所で学んだのち、東京美術学校に入学しました。それはちょうど文芸雑誌『白樺』が創刊されゴッホやムンクといった後期印象派などの西洋美術の紹介が盛んにおこなわれ、竹久夢二が『夢二画集』の抒情的な詩画で一世を風靡していた頃です。田中も新しい時代の芸術表現を模索しはじめ、竹久夢二と親交したり、仲問と一緒に回覧雑誌を作ったりする中で、ペン画や詩作に情熱を燃やします。
田中の創作を高める契機となったのは、皮肉なことに病魔に襲われたことでした。大いなる希望と創作意欲を抱きつつ、喀血により自らの生命の終わりが遠くないことを知らされた田中は、死への不安や恐れ、生命の営みをつづける植物や自然に向けたまなざしを、ペン画の鋭い線や、あらたに着手した自刻の木版画で表現するようになります。木版画への興昧は親友の恩地孝四郎や藤森静雄にも伝わって、三人で詩と版画の雑誌『月映(つくはえ)』の制作、刊行へと発展し、田中の打ち出す『月映』の世界観は恩地や藤森にも強く響き、『月映』は近代美術史にのこる珠玉の作品集となりました。
『月映』のための田中の制作は療養のために戻った故郷で続けられましたが、やがて木版画を制作する体力を失うと、ペン画や詩作に残された力を注ぎました。しかし1915年10月、自宅で逝去。わずか23才でした。16点のペン画で構成された『心原幽趣』Ⅰは、彼の代表作であり、生前に引き受けながらも果たされなかった萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』の挿画として恩地の装丁により収載され、萩原の詩の世界と不思議なまでに一致したその作品は、人々が驚嘆するところとなりました。
展覧会では、『月映』のための木版画や『心原幽趣』Ⅰなど代表作をはじめ、中学時代から晩年までの作品約300点により、田中恭吉の全貌を紹介します。12年ぶりの開催となる大回顧展を、ぜひご覧ください。