春山憲太郎、その作品に潜むもの
レンズを磨く技法で研ぎ上げられた金属、箱根細工の様な精緻な木工、表情を消された無光沢の樹脂。
独特の形状とバランスで組み合わされたそれら素材達による小さなインスタレーションとも言うべき作品。
春山憲太郎の「仮説としての彫刻のプラン模型」シリーズは、豊かな言葉を持ちながら、我々の前に寡黙に蹲ります。
この作品の背景には、作品とそれを置く場所の関係性が重要な意味を持っています。春山は、その場所にその作品を置く、という行為をその場所の歴史・社会・文化・美観・倫理に対するコメントであると言います。
一方、自身の作品はそのタイトルが示す通り彫刻のプランとして制作されてはいますが、その設置される場所、或いは前述のコメントに相当する設置背景の関係は意図的に不明瞭にされています。また、これもタイトルの示す通り、仮説としてのプランである事が、その設置場所が架空である事を示唆しています。
プランとは実行を目標として作成されるもの。しかし春山は実行を目的としないプランを、しかも架空の対象に対して作成し、そこに物理的な形状をもつ「プロトタイプ」を与える事で、我々を思考の迷宮の中に誘い込むのです。
今回春山は新しい展開をも提示します。これは建築物、室内装の一部分を、前述の「プロトタイプ」の様式で制作し、存在しない建築空間の暗喩を目論みます。ここでは鏡面を表現に持ち込む事で、展覧会全体をさらに複雑な構造の中へ落とし込んでいきます。
日常的に鏡を使う時、我々はそこに反射のメカニズムと言った現象自体を検証したりはしないでしょう。もしその作業にかかったなら、我々は鏡に映った自分を意識する事はできなくなります。この事から春山は、鏡の表面に代表される鏡面に、意識と無意識の境界という暗喩を与えました。
ここに映り込む事によって、「プロトタイプ」は反射と実体/意識と無意識という二つの相反する空間の境に挿入されることになります。
春山の紡ぎ出した言葉と、作品の多様な素材の持つ表情、またその反射二重三重の絡み合いによって、我々は解釈と知覚が完成されることを惑わせ続けられるのです。