心に感ずる何かを表現したいという衝動は、男女の性別や年齢を問わずおこるものです。その結果として美術、音楽、演劇、文学など多彩な芸術的活動が人類史の過程の中で数多く展開してきました。
しかし、今までの美術史を振り返ってみると、「女性」たちが美を「表現する者」=作家として認知されている場面がきわめて少ないことに気づきます。むしろ、男性作家たちの理想的な美の表象として「表現される対象」であったことに改めて気づかされるのです。これは、西洋・東洋を問わず地球的な規模で共通していることでしょう。
人間は、人間として生まれついたときから「男女の性差」を宿命として一人一人が背負っているのです。しかし、女性(あるいは男性)であるがゆえに社会的、文化的、経済的に生き方が一方的に制限・拘束されたりすることはおかしなことだと、現代人たちは感じはじめています。いわゆる“ジェンダー(社会的性差)”問題です。
ひと昔まえの日本、明治・大正時代には、「閨秀画家」と呼ばれていた女流画家たち。男性中心の世界にあって美術を専門的に学ぶ門戸も狭く、職業画家として自立していくにはなおさら厳しく、困難な時代でした。そんな中で彼女らは自らのまなざしをもって美を表現することに挑戦したのです。少数の先陣の挑戦は現代の女流画家たちに受け継がれています。
“ジェンダーフリー”が叫ばれている今日、「女流」「女性」という言葉が「画家」の前についていること自体がナンセンスなことなのかも知れません。しかし、ここでは、あえてこだわりをもって、彼女たちの「表現者としてのまなざし」に注目したいと考えます。これらの「まなざし」を通して、これからの自分自身のありようをイメージしていただけたら幸せです。