近代日本で活躍した画家、山喜多二郎太(1897-1965)は福岡県出身の洋画家です。大正4年に東京美術学校で西洋画科に入学して油彩画を学ぶ一方、日本画家の寺崎広業にも師事し、日本画の手法も学ぶといったように、自らの表現に適した画法を若い頃から探求しつづけていました。
美術学校卒業後、第2会帝展で初入選を果たします。しかし初入選をした《小供》について「これは帝展芸術と申すものです。自己の芸術派いつ作ってお目にかけますことやら。」という言葉を残しています。入選するための作品を制作しなければ画家として世に出ることができない矛盾を抱えながら二郎太は制作を続けました。
西洋美術の影響を受けた僚友たちが渡欧するところ、反発した二郎太はあえて中国へと遊学します。そこで、水墨の世界に魅了された二郎太は、従来より影響を受けていた中国美術の流れとしての日本美術を目指すようになり、水墨に淡彩を加えた墨彩画を多く描くようになりました。やがて、油絵具と墨いずれを使っても自由自在な線が画面中を駆け巡るようになり、楽しさあふれる風景画や、子どもの落書きを思わせるような抽象画等を制作するようになっていきます。帝展や光風会展にも毎年出品・入選を果たし、官展における地位も確立しています。しかし、そこには西洋と東洋の美術を横断し、画題や運筆、さらには「藝術」という概念からも解放された画家の姿がありました。
山喜多二郎太は、同様の対象を油彩画と墨彩画の両方で描き分ける、または墨彩画のような筆致で油彩画を描くといったように、自由奔放に制作を楽しんだ画家でした。
本展では、武蔵野市の所蔵品の中から選出した山喜多二郎太の作品約50点をとおしてその画業を紹介します。近代の日本美術界が西洋文化の波に飲み込まれていく中、日本独自の姿を取り戻そうとしていた画家の一人として山喜多をとりあげ、作品をとおして日本美術の特色の再確認をおこないます。