呉春が、「月渓」と号して活躍した俳諧や俳画などの作品を中心に、師である蕪村との交流も交えながらご紹介します。蕪村が「天授の才」を認めた月渓の多方面にわたる活躍をぜひお楽しみください。
月渓は、宝暦二年(1752)、京都に生まれました。二十歳ごろに蕪村の門に入り、絵画と俳諧を学んでめきめきと上達します。ところが、天明元年(1781)、妻と父の二人の大切な人を相次いで失うという不幸な出来事がおこり、傷心した月渓を心配した蕪村は、気分転換に池田に行くことをすすめます。翌年、「呉服(くれは)の里」と呼ばれた池田で新春を迎えた月渓は、この地で新しい一歩を踏み出す決意をかためて剃髪し、姓を「呉(ご)」、名を「春(しゅん)」と改めました。もともと風流をたしなむ人が多くいた池田の地では月渓を歓迎し、「呉春」と改号した後も、俳諧や俳画ではなお「月渓」号を使用して活躍します。俳諧では、月渓を指導者とした句会が定期的に催され、いっぽうで、味覚鍛錬(たんれん)の会である「一菜会(いっさいかい)」や謡曲の会、蹴鞠の会、などさまざまな会合が月渓を中心に盛んになります。天明三年(1783)に蕪村が没し、蕪村の後を次いだ几董(きとう)が寛政元年(1789)に亡くなると、月渓は京に住まいを定め、円山応挙(まるやまおうきょ)との交流を深めてゆきます。いわゆる「四条派」と呼ばれる呉春の画風は応挙との交流を通して誕生するのです。