北海高島得三は、その前半生、工部省、農商務省の技術官僚として地質調査や山林行政に従事し、日本国内はもとよりヨーロッパにも赴いて各地の山岳を踏破、官界を去ったのちも山岳の探求を続け、その足跡を北米、中国、朝鮮へと拡げています。
画家としての北海は、日本美術協会展や文部省美術展覧会(文展)を舞台に活躍し、日本画界の重鎮と目されました。しかしながらその活動が旧派の側に拠るものであり、晩年中央と距離を置いたこともあって、没後しばらくその画業が忘れられた経緯があります。 北海の再評価は、戦後にいたって、 1880年代のナンシー派アール・ヌーヴォーとのかかわりが注目されたことを機に始まりました。
「天然物の写生をなして造物者と親密の交際をするのが第一である」という本人のことばにうかがわれるとおり、北海の制作は、世界の創造の根本に参入しようとする壮大な企図にもとづくものです。その意義は今日あらためて重みを増していると考えられますが、地質学など西洋の自然科学と南画という東洋の絵画形式を一体化しようとする北海の方法は、近代美術史上に特異な存在であり、さらなる評価と研究が積み重ねられていくことが期待されます。
※会期中展示替をおこないます。
《前期:2月11日~2月27日/後期:3月1日~3月21日》