2010年5月19日。半世紀に渡り作品の命題として「死なないために(To Not To Die)」を掲げてきた荒川修作の訃報は、あまりにも突然でした。
1936年、名古屋で生まれた荒川は、上京後読売アンデパンダン展などを通じて活動を開始。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの結成に参加したのち、1961年、出光興産の創業者 出光佐三らの経済支援を受けニューヨークに移住し、生涯を過ごしました。マルセル・デュシャン、岡本太郎らとの交流が始まり、なかでも生涯のパートナーとなる詩人マドリン・ギンズとの出会いにより、荒川の活動は大きな転換を迎えます。ダイアグラム(図式絵画)、そして「意味のメカニズム」シリーズは、二人の共同作業により1963年から始められたプロジェクトであり、代表作のひとつです。矢印や言葉など、絵画と文字群によって構成された平面作品は、それを読み解くことが私たち自身の常識を乗り超えるためのエクササイズとして提示されています。これらの作品は、主観的な見方を極力ニュートラルにして、「意味」のもつ曖昧さや構造を発見するための装置です。そして二人にとってこのプロジェクトは、人間の「死」という不可避な条件に対する挑戦として集約されていきます。
1960年代末には国際的名声を得た荒川。国内でも日本国際美術展や現代日本美術展などで受賞を重ね、大阪万博のほかドクメンタ(独)やヴェネツィア・ビエンナーレ(伊)などの国際展覧会に招待されるようになりました。その頃に制作された《意味のメカニズム》は作品として制作されたほか、独・英・仏・日本語版の書籍として発行され、美術分野のみならず哲学や科学の分野にも多大な影響を与えました。
1980年代以降の荒川は、「知覚によって構築される空間」とは何か、を問い始め、活躍の場を次第に美術から建築へと移行させます。その実践として1994年に《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》(奈義町現代美術館)の恒久設置を皮切りに、1995年に《養老天命反転地》(岐阜)を、2005年には《三鷹天命反転住宅》(東京)を竣工しました。
また、代表的な著作にはギンズとの共著『死なないために』をはじめ『死ぬのは法律違反です』など、複数の言語で多数刊行されています。
北九州市立美術館では、荒川が世界に認められる初期代表作となった「意味のメカニズム」シリーズ・・・