明治35年に14歳で上阪し、日本画の花鳥画家平井直水に弟子入りします。翌年からは京都市立美術工芸学校日本画家に入学し、日本画の基礎をしっかりと勉強しました。
大正に入ると人気の挿絵画家となって、新聞や雑誌などのメディアに挿絵や表紙絵、広告絵などのいわゆる複製絵画を手がけることが多くなり、日本画を得あく時間はありませんでした。しかし昭和7年ごろから、再び日本画制作に打ち込むようになります。細かい挿絵の仕事が肉体的にきつくなってきたことや時代の変化などにより、挿絵の依頼を徐々に減らしていた頃でした。戦後、昭和20年代には児童向けの絵本や単行本の挿絵を描くようになりますが、その合間に日本画制作も続け、昭和41年に亡くなるまで筆を止めませんでした。
日本画を描く際に画家は下書きを繰り返しますが、最終的な構図を線のみで描いた「下絵」というプロセスがあります。日本画ではこの下絵に絹や紙を重ねて透き写して彩色していきます。つまりこの下絵という段階で最終的な線が決定されますが、そこには画家の試行錯誤のあとを見ることができます。
華宵といえば美人画が有名ですが、他にも武者絵や風景画、宗教画、花鳥画など多彩な日本画を描き残しています。展覧会では華宵の日本画と下絵を展示します。華宵の鮮やかな色彩と下絵に描かれた美しい線描をご堪能頂ければ幸いです。