太平洋戦争が激化し、本土決戦を目前にして、文部省は学童の縁故疎開(都市の児童を田舎の親戚などの家に移す)を促しましたが、昭和19(1944)年6月30日、国民学校初等科児童の集団疎開が閣議決定されました。京都市は最初、疎開を行う都市ではなかったのですが、昭和20(1945)年1月、修道学区の馬町が空襲を受け、日増しに状況が緊迫したため、同年3月の春休みに入った時点から、新3年生以上の第一次集団疎開が始まりました。疎開先は地域ごとに京都府下の町村が指定され、宿舎には寺院や教会、旅館などが寮として提供されました。
児童疎開は、疎開先の国民学校(小学校)で地元の児童と一緒に授業を受け、放課後は畑を耕すなどの労働につきました。約7ヶ月間の疎開生活を親元から離れて暮らした幼い子ども達は、空腹感とホームシックとシラミ等の害虫に悩まされ、逃げ出す児童もいました。また、引率教員にとっても児童の命を預かった苦しい7ヶ月間でした。一方、疎開児童を受け入れた地域の住民とも交流は、想い出深い記憶として残り、年月を経た現在まで交流が続いている例もあります。
二度と同じ歴史を踏まないために、貴重な体験をした人々の記憶を収集し、集団疎開の実情に迫る当時の資料を展示することで後世に伝え、平和と人権の大切さを感じていただける展覧会といたします。