日本が万国博覧会に初めて参加したのは開国まもない慶応三年(1867)のことであった。江戸時代最後のこの年、パリで行われた万国博覧会には江戸幕府とともに薩摩藩も単独で大型の薩摩焼を出品したことが知られている。明治六年(1873)、明治政府として初めて参加したウィーン万博には大型の陶磁器、金工作品が沢山並べられた。当時、工業製品を持たない日本は、それまで培ってきた工芸技術の粋(すい)を結集して大型でかつ細密な工芸作品を万博会場に並べることにより、日本の国力を欧米の人々に知らしめようと試みた。その結果、日本館には、人間の背丈程もある金工や七宝の花瓶や香炉が並べられたのであった。
特に明治20年代から30年代に作られた作品は、欧米から異質な文化が流入することにより、新しい感覚の作品が生み出された。このことは特に蒔絵作品や金工作品に顕著に表れている。そしてこれらを先導していたのは、白山松哉(しらやましょうさい)、加納夏雄(かのうなつお)、海野勝珉(うみのしょうみん)といった帝室技芸員の人達であった。
明治の工芸作品は、その当時の多くの欧米人を魅了し、今なお多くの欧米人を魅了し続けている一方で、日本人からは忘れ去られ、日本には作品が殆ど残っていない事は非常に残念なことといわねばならない。
わずか数十年の間だけ花開いた美しい世界、もう誰にも作ることのできない超絶技巧の世界を、日本人はもっと知るべきではないだろうか。