昭和5年(1930)、大倉財閥の総帥・大倉喜七郎男爵の全面的な支援により、イタリア政府が主催しローマで日本美術展覧会が開催されることになりました。 当時の日本画壇を代表する総勢80名の画家たちが描いた日本画168点が出品されるという 一大展覧会でした。
清方も画壇で高く評価されており、参加と協力を求められ、今日でも代表作とされる作品《七夕》《道成寺・鷺娘(さぎむすめ)》を出品しています。
ローマへは赴きませんでしたが、旅立つ友人平福百穂(ひらふくひゃくすい)と松岡映丘(まつおかえいきゅう)を見送るため、神戸まで出かけることにしました。そのことは、清方がほとんど遠出をしなかったので、家族をはじめ多くの人を驚かせました。約2ヶ月にわたって関西を巡り、《舞妓》《大和路の或る家》を描いています。
本展では、「ローマ開催日本美術展覧会」への出品作と、その展覧会のために日本を発つ友人を送りに行った関西への旅にまつわる作品など約50点をご覧いただきます。