野長瀬晩花(本名弘男)は1889(明治22)年8月17日、和歌山県西牟婁郡近野村字近露(現田辺市中辺路町近露)に生まれました。日本画を学ぶために14歳で大阪の中川蘆月塾に入り、京都の谷口香キョウのもとに移った後、1909(明治42)年に新設された京都市立絵画専門学校に入学、この頃から晩花の号を用いて活動しています。1911(明治44)年に第16回新古美術品展で《被布着たる少女》が3等を受賞して京都画壇で注目を受ける存在となり、以後は反官展の立場を表明しながら個性的な作品を発表しました。1917(大正6)年頃には、竹久夢二とも親交を結び、制作と生活の両面で影響を受けています。1918(大正7)年、文展の審査に不満を持った土田麦僊、小野竹喬、村上華岳、榊原紫峰らと国画創作協会を創立し、西洋絵画の表現を取り入れた斬新な作品を発表して、大正期の日本画に新風をおこしました。1921(大正10)年、晩花は土田麦僊や小野竹喬らとともにヨーロッパに渡り、翌年帰国。1927(昭和2)年の第6回国画創作協会展に《海近き町の舞妓》を発表した後は公募展に出品せず画壇から離れて行きました。1932(昭和7)年から中国へスケッチ旅行に繰り返し訪れ、帰国ごとに個展を開催。1936(昭和11)年、その成果をもとに『北満国境線を画く』を出版。1946(昭和21)年には疎開先の信州の文化人たちと白炎社という団体をつくり、当地の芸術文化活動にも貢献しました。
1998(平成10)年、当時の和歌山県西牟婁郡中辺路町に町立美術館として開館した熊野古道なかへち美術館は、この野長瀬晩花の作品紹介をひとつの軸として活動してきました。2005(平成17)年、市町村合併により熊野古道なかへち美術館は田辺市立美術館の分館として新たなスタートをきり、本年は開館10周年のの節目を迎えます。これを機に、これまで課題としてきた野長瀬晩花の全体像を振り返る特別展を本館との合同企画展として開催し、国画創作協会の創立会員の一人として大正期の美術界に旋風をおこし、個展形式でもユニークな作品の発表を繰り返した画家の軌跡を、代表作を中心に約100点の作品により再確認して紹介します。