明治初期、文部省博物局の時代より国内の古美術品の収集と保存はウィーン万国博覧会(明治6年[1874]開催)への出品と関連していたように、明治期の国内外で多数開催された博覧会や展覧会は、文化財の調査と博物館への集積の呼び水でした。
ここに写真という記録手段がどのようにかかわるかというと、すでに江戸城の撮影(明治4年)や壬申検査(明治5年)といった文化財調査に写真を導入した明治政府の担当者は、記録媒体としての写真の有用性を理解していました。そこでかれらは博覧会や展覧会に出品された古美術品の撮影を積極的に行ない、情報を伝え、集積していったのでした。この中には現在は失われた美術品も相当数あることでしょう。また当時の人たちの美術品をみるまなざしも興味深いものがあります。このように古美術品の写真撮影と文化財の保護は展覧会の開催を通じて密接なかかわりがありました。
今回の特集陳列では、明治前期にウィーンやパリで開催された万国博覧会、そして国内に目を転じ、観古美術会に出品された作品の写真、さらに美術写真家の先駆けの一人といえる工藤利三郎の撮影した写真をご紹介します。
観古美術会とは、内務省博物局により開催された美術展です。その性格は、博覧会事業とそれに絡む欧米でのジャポニズムの購入力をあてこんだ、輸出を前提とした古美術保護および殖産興業政策の一環でした。その中心にいた大蔵卿佐野常民は、内外博覧会事業の大立者でした。つまり万国博覧会と観古美術会は19世紀末の日本とヨーロッパの美術産業事情を映し出す鏡ともいえましょう。
一方で初めから文化財を美術品として撮り続けた写真師も登場します。今回ご紹介します社寺建築写真帖は、写真師・工藤利三郎が撮りためた写真のなかから選択されたものです。国家の要請によって撮られた写真との対比をご覧いただければと思います。
『澳国維府博覧会出品撮影』明治5~6年(1872~73)
『観古美術会写真帖』明治13~15年(1880~82)