「芸術における空間とは、まったく空気を抜いた絶望的な真空、虚であるか、でなければぎっしりと、みじんの隙もなくつまったものである、と私は信じるのです。」(岡本太郎「光琳論」『日本の伝統』光文社 1956年)
岡本太郎は、さまざまなジャンルに渡って文章を残し、芸術家としては異例なほど著書が多い作家です。しかし、有名な「対極主義」、相反する要素を同じ画面の中に共存させるという岡本独自の芸術論を除くと、意外にも岡本が自らの絵画や制作について語った文章はかなり少ないといえるでしょう。
そうしたなかで、岡本の絵画についての考えを垣間見ることのできる文章の一つに「光琳論」があります。若き日にパリに留学していた岡本太郎は、街なかの本屋のウィンドウでたまたま目にした尾形光琳の《紅白梅図屏風》に引きつけられます。まったく隙のないきびしく充実した画面、それまで日本の美術に物足りなさを覚えていた岡本にとって、それは故国の美術に感じたはじめての衝撃でした。戦後になって執筆された「光琳論」で岡本が展開する文章は、自らを魅きつけた光琳の画面についての考察であると同時に、岡本自身の主張でもあると考えられます。「空気も水もない。この真空の世界にこそ、すさまじい緊張とともに、非常の空間が現出します。(中略)空気のただよっている空間などというものは、自然主義の感傷的で通俗なごまかしにすぎない。」
たしかに岡本の画面に、空気感というのはあまり感じられません。これでもかという程にぎっしり詰めこまれた賑やかな構成、もしくは、暗い真空を切り裂く色のひらめき、という印象が強いように思われます。こうした空間構成の視点からみていくことも、岡本の絵画空間を読みとく一つの鍵となることでしょう。