「模様から模様を造るべからず」
現代陶芸作家への第一歩を刻んだ、富本憲吉の言葉です。強い決意として宣言された模様の創作。そこにはどのような背景があったのでしょうか。
明治時代の幕開けと共に、輸出陶磁器の生産は一気に盛り上がり、この動きを明治政府は率先して推進しました。例えば明治8年(1875)から出版された『温知図録』は、内務省管轄の博覧会事務局などが編纂(へんさん)し、博覧会などに用いるよう指導したものです。いずれも技巧を凝らして器を彩る華やかな図案ですが、時に中国や日本の既存の模様を利用し、あるいはアレンジしたものであったことが、近年の研究で明らかになってきました。このようにして模様を作る方法には限界があったのか、やがて工芸品の輸出不振がささやかれるようになります。明治33(1900)年のパリ万博では、日本の陶磁器の旧態依然とした意匠が批判を浴びました。当時の西洋では、アール・ヌーボーと呼ばれる新しい装飾様式が一世を風靡(ふうび)していたのです。
これを受けて、教育機関を中心とする図案研究が活発になり、一方で試験所における化学的な技術開発が進められます。東海地方においても、瀬戸陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)が、図画の教育を強化する一方で陶磁器試験所を併設したのを始めとして、各地に研究機関が設置され、アール・ヌーボー様式を取り入れた図案や、西洋技術の研究に基づく新しい装飾技法が模索されました。その流れは現在にまでつながっていると言えるでしょう。
一方、富本憲吉は、身近な自然や風景の写生を基盤として、何よりも「模様を造る」ことを重視します。では、富本の言う「模様」は、これまで見てきた近代の「図案」とどう異なるのでしょうか。近代の陶磁作品や図案集などを比較することによって、模様に対する意識の変化を追跡します。
出品数:約20点