昭和9年、病臥に就いた竹久夢二(1884-1934)は、療養先の信州・富士見高原療養所の病室の窓から見える八ヶ岳の山々を眺めて、次のように記しています。
「私は何故、一番に山のこと(を)書かなかったか、今日はコマガタケが見ゆる。この窓から見ゆる山々の構図もさう悪くない。だんだん山が身にしみてくる。……」
(昭和9年1月23日付 『夢二日記4』所収)
かつて、周囲から反対を受けた笠井彦乃との恋愛の最中、互いに「山」「川」と符丁で交わした手紙の中で、夢二は彦乃を「山」と名づけました。彼女との凡そ5年にわたる愛の記録は後に、『山へよする』と題された一冊の歌集にまとめられました。
また、自らの次男には、富士山に因んで「不二彦」と名付け、離婚後は男手一つで懸命に我が子の面倒をみています。不二彦は、後に当時を振り返り「私は、いつも父のポケットの中にいた」と懐古しました。
本展覧会では、夢二の描いた風景画を中心に、彼のさまざまな想いを託すべき対象となった「山」について広く検証します。