「世界は見られることを望んでいる」ガストン・バシュラールがクロード・モネの芸術活動を通じて近代絵画を隠喩したのは1952年、今からおよそ半世紀前のことである。その頃からの50年というのは近代的精神による自律性という命題を盲信し、美術表現を古典的な意味で貧困な表現へとを導いてしまった一面があることは否めない事実であろう。オリジナリティの神話もまたそれに加担したのである。 その間、芸術家たちは何を見てきたのだろうか。それは芸術表現自体であり、あるいはまた作家自身という虚構の世界ではなかっただろうか。もちろん、これは芸術家たちばかりの責任ではない。近代文明の加速度を増した発展は、多くの生活者たちにも見ることの虚構化を誘いだし、世界は見られることを忘れてしまったのである。牧歌的な風景など、もう人々の心の中にも存在し得ないことは、いまこの世に生を受けた者の中で知らぬ者はいない。 それでも、芸術家たちは「見ること」を続けなければならない。何を見るのか。見つづけようというのか。そして我々は、あくまでも、見られるべき世界があることを信じて営みを続ける者の行為を凝視しなければならない。 佐々木直美の画面は、ほぼ全体がモノクロームの状態になっている。その茫漠とした画面の中のわずかな調子の変化がイリュージョンを醸し出すときに、たとえばマーク・ロスコのような抽象表現主義の作家たちによる崇高なる世界の顕現を類推させる。しかし、そのような崇高概念による分類も「見ること」の制度化に他ならないであろう。佐々木の画面はそのような「見ること」の既成概念を拒絶した上の成立を希求している。 前田朋子の代表的な作品に、我々が共有していた自然主義的な風景上に記号化された花柄のヴェールを懸けたものがある。繰り返しになるが、その自然主義的な風景は記憶や映像によって反復された光景であり、何重にもフィルターを通した現れである。記号化した花柄という甘い目眩ましはそのことを密やかに伝えている。前田の映像は我々の「見ること」に対する虚構性自体を鮮やかに写し出しているのである。 「見ること」を忘れてしまった我々にとって、二作家の世界構築が、どのような黙示録となりうるのかは、それは我々自身の世界認識を写し出す鏡ともなるだろう。 中井康之(なかいやすゆき/国立国際美術館)