昭和6年から11年頃まで浦和に滞在した四方田草炎(1902-1981)は、戦中、空襲によって手元にあった全ての本画を焼失します。そして戦後、しばらくは本画も描いていますが、次第にデッサンばかり描くようになります。後年、彼は「デッサンが描けなければ、絵描きじゃない。60歳後半までデッサンをやり、80歳までに本画が描ければそれでよい」と語っています。 1947(昭和22)年頃から約3年間、茨城県の霧積山中にこもってデッサンに没頭し、その後1950年代から60年代にかけて充実した制作活動を示しました。
本展出品の「竹」の連作10点は平成17年に新収蔵となったものですが、制作年ははっきりとしていません。しかしこの時期、50年代のある頃に描かれたものと思われます。一部着彩はされていますが、多くの描き直しの線が残ったまま、所々紙を切り貼りして描き直したところもあります。サインや落款も入っておらず、未完のデッサンと言えるでしょう。画面もほとんど竹の幹だけが、一見無造作に無骨に描かれているだけです。情緒的な装飾性などは感じられず、むしろそれらを意図的に廃することによって、却って竹のしなやかな強靭さとでもいうものを表しているようです。一室が全てこの竹の連作で埋め尽くされた時、私たちはそこに現実の竹林とはまた違った四方田の「竹林」を見ることが出来るでしょう。
四方田草炎[よもだ そうえん]1902(明35)年-1981(昭56)年
埼玉県児玉郡北泉村(現・本庄市)に生れる。本名清次郎。1921(大10)年上京し、医学関係の書店などに勤めながら、川端玉章が創始した川端画学校夜間部に通う。1928(昭3)年、川端龍子の私塾、御形塾に入り、翌年、龍子が結成した青龍社へ出品。1930(昭5)年、第2回青龍展に出品した龍子の作品の画題「草炎」にちなみ、師より雅号を贈られる。この頃、浦和町に転居(1936年に東京へ転出)、バラックの画室を借り須田剋太と交流する。戦中、空襲で手元にあった本画をすべて焼失する。1947(昭22)年会発足に参加。群馬県霧積の山中で素描に没頭。デッサン力が尊敬する横山大観に認められる。作陶にも取り組むが、病気のため断念。東京で没。