東京富士美術館では、2006年の企画第二弾として、「東海道五十三次と冨嶽三十六景」を開催いたします。
浮世絵版画の代名詞のように語られる『東海道五十三次』の作者である、歌川広重(1797(寛政9)~1858(安政5)年)は、江戸八代洲河岸の定火消同心の子として生まれました。15歳で歌川豊広に入門。初期は美人画や役者絵を描いていましたが、文政末頃から風景画を描き出し、天保2年(1831)頃、一幽斎と号し、版元川口屋正蔵から『東都名所』シリーズを刊行したのをかわきりに、日本の四季を詩情豊かに描く独自の風景画の様式を確立しました。
天保3年(1832)幕府が行う八朔の御馬進献の行列に随行して東海道を京へ上り、帰府後、天保4年(1833)より版元保永堂から出版した『東海道五十三次』は折からの旅行ブームとその抒情性に富んだ作風によって爆発的な人気となりました。
また安政期(1854-60)には老練した筆捌きによって『名所江戸百景』の大シリーズを刊行しました。
一方、『東海道五十三次』と並び評されるのが、北斎の『冨嶽三十六景』です。
葛飾北斎(1760(宝暦10)~1849(嘉永2)年)は江戸本所に生まれ、幼少より好んで絵を描いていました。15、16歳の頃から彫師について版刻を学び、19歳で、勝川春章に弟子入りしました。春朗を号して役者絵などを描く傍ら、狩野派を学んだため勝川門から追われたと言われています。寛政7年(1795)二代俵屋宗理を襲名し、同11年には北斎辰政と改名。その後も北斎は琳派、土佐派、洋風画など、あらゆる画法を学びながら、独自の画風を大成しました。
天保2年(1831)頃から刊行された『冨嶽三十六景』は北斎の浮世絵版画を代表するものとなりました。北斎はこの時70歳、小さな紙片に込められた希有壮大な絵の空間もさることながら、そこに描かれた人物の溢れんばかりの生命力で跳躍する姿に、北斎の透徹した画業人生を伺わせる筆致を見ることができます。
常に自己変革を求め、生涯に転居すること90回以上、用いた画号は30を超えます。嘉永2年(1849)90歳で没するまで、絵に対する情熱を燃やし続けました。
本展覧会では、広重の『東海道五十三次』(保永堂版)とともに、北斎の『冨嶽三十六景』の新収蔵作品を初公開いたします。江戸時代の庶民芸術の華と称された浮世・・・